【旅行】 ポーランド(アウシュビッツ) その2(最終日)
ポーランド2日目。今日はメインイベントのアウシュビッツ収容所訪問。
ガイドをお願いしてあるのは午後1時からなので朝は比較的ゆっくりできる。
ホテルでいかにもヨーロッパのホテルの朝食といった感じの食事を取り、チェックアウト。
9時35分発の長距離バスでアウシュビッツ(ポーランド名オシフィエンチム)へ向かう。所要時間は約1時間半。
バスのボロさが旧東欧っぽさを醸し出す。
車内は思ったよりはすいていて、寝ている間に到着。
全面雪模様。奥に見える建物が入り口。
まだ時間に余裕があったので、道路の反対側にあるレストランで昼食。
コンソメスープと昨日も食べたポーランドの餃子。
1時前になったので建物内に入ると、ガイドの中谷さんが声をかけてくれた。
今日は我々2人以外に男性2名と3人家族の計6名(+子供1名)ということ。ガイド料は固定で250PLZで、それをみんなで割る形。
上手く割れないので1人50払って余ったお金でヘッドホンガイド(中谷さんの声をヘッドホンで聴ける)を用意してもらった。
受付を通って中へ。
この方がガイドの中谷さん。
以降、中谷さんから聞いた内容の詳細はあまり書かずに進めたい。
非常にデリケートな問題であるし、やっぱり中谷さん本人の口から聞いた方がいいと思うからだ。
中谷さんは元々この収容所でガイドとして働いていた、この収容所の生還者(もちろんユダヤ人)に教えてもらった内容を、
内容も話し方も極力そのままにして伝えるように努めていると言っていた。
その言葉にはやはり重みがあるし、実際に建物や現場を観ながら聞くと感じられるものが非常に多い。
是非一度行ってみて下さい。
ただし、夏場は混雑のためガイド付でないと回れないことになっているそうなので注意。
さて、続きを。
収容所に入って最初に迎える分かれ道。観光客にとっては何の変哲もない分かれ道だが、当時はここが運命の分かれ道。
ナチス軍によって運ばれてきたユダヤ人達は、まずこの分かれ道の前で軍医による「審査」を受ける。
「働けるかどうか」の審査であり、働ける者はこの写真で右側の収容所に連れて行かれることになる。
逆に「働けない」と判断された人達は向かって左側に連れて行かれた。
左側に連れて行かれた人がどうなるかというと… そのままガス室に入れられて 殺害されてしまったのだ。
審査と言っても正面に立って顔色を見て判断するという至って簡単なもので、
軍医は顔の前に人差し指を立て、次々と目の前に立つユダヤ人達を見て、
指を右に傾けたり左に傾けたりするだけ だったという。
凄惨なガス室の話はまた後で触れることにして、まずは収容所の中に向かう。
これが有名な「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」と書かれた入り口の門。
もちろん実際には働いて自由になった(解放された)人はおらず、大戦の終了後に収容所が解散されるまで閉じ込められていた。
日本語でも使われるドイツ語の「ARBEIT(アルバイト)」だが、
この写真をよく見ると 「B」の文字が上下逆さまになっている ことに気づく。
これは決して偶然ではなく、当時この門を作った大工が、「こんなことは間違っている!」という反抗の気持ちをささやかながら表現したもの。
本人自らの証言らしいので、確かな情報だろう。
敷地の境目には2重の有刺鉄線。しかも当時はここに高圧電流が流されていたという。
敷地内には収容された人々が寝泊まりする収容所が整然と並び立っている。
木々も人工的に植えられ、パッと見はキチンとした都市計画に基づいて作られた街並みのように見える。
当時のドイツの建築技術の高さがわかると共に、逆にそんな先進国であったドイツがこのような行為に及んでしまったという事実が衝撃的。
収容所の中に入る。
部屋は広々としているが、当時はここにギュウギュウに収容者達が詰め込まれていた。
壁にはこの収容所に連れてこられた人達がどこからやってきたかを示す地図。ほぼ欧州全域に跨る。
正確な人数はわかっておらず、人によってかなりバラツキがあるものの、少なくとも100万人以上だったことは確実なようだ。
90%以上がユダヤ人だったが、それ以外の民族でも政治犯や身体障害者、同性愛者などの人達が連れてこられたという。
身体障害者や同性愛者などは人間として優性でないと判断され、
肉体的にも精神的にも正常な「優れた」人間のみの世界にすることが真の世界平和と繁栄をもたらすという考えだったようだ。
これはガス室の模型。
左が脱衣所、右がガス室、そして地上にあるのが死体焼却所である。
ガス室に連れてこられた人達は、「消毒のためシャワーを浴びてもらう」という名目でまず裸にされ、そしてシャワー室(ガス室)にぶち込まれた。
ガス室にはちゃんとシャワーの蛇口(ダミー)も天井に取り付けられており、入室してくるユダヤ人達に怪しまれないように考えられていた。
そして全員が入ったところでドアが閉められ、天井にある小さな穴から毒ガスが投与され、ものの数分で死に至ったという。
静かになったところでドアを開け、死体を運び出して焼却した。
厳密にはこれはアウシュビッツ第二収容所にあったガス室の模型であり、終戦間際にナチス軍によって証拠隠滅のために爆破されてしまっている。
これが実際に殺戮に使われた毒薬の空き缶。
毒薬と言っても実際は普通の農薬で、この薬を作っていた会社は現在でもちゃんと存在する。
当時の注文書にも「農薬」としか書かれておらず、売っている側としてはまさか大量殺戮に使われていたとは思ってもいなかったようだ。
この収容所の恐ろしいところはこういう「システマティックに」コトが進められていた部分で、
作業が細かく分断され、「自分がやっていることが悪いことである」という意識を持たせなかった。
例えば殺戮されたユダヤ人からは金歯や装飾品など、換金できるような貴金属が多数回収されたが、
それを実際に業者に売る時には、当たり前だが「金歯から作った金」ではなく、「金の延べ棒1本」のように、ただの「モノ」であるようにしか記載されない。
ガス室でも服を脱がせる人、ガスを撒く人、死体を焼却する人はそれぞれ別の担当で、
あたかも流れ作業のように淡々と自分の目の前の作業をこなしていくだけだったようだ。
食料も睡眠も満足に取れない極限状態では、それらが「作業」になってしまうということも十分あり得ることのように思えてしまう。
もっと恐ろしいのは収容者達のヒエラルキー構造で、では実際に上記のような作業をしていたのが誰かというと、収容者達本人だったのだ。
つまり実際にはユダヤ人がユダヤ人を殺戮していたことになる。
冒頭で掲げられた「労働」にはこういった作業も含まれ、また監視していたのも「収容者の上席者」、つまり収容者達の中に階層構造を作ったのだ。
こうなると人間不思議なもので、見えない幸せよりも、見えている幸せ、つまりは収容者達の中での出世を目指すようになるらしい。
こうして意識を収容所の外でなく中に向けることで、この「システム」を上手く回すことに成功した。
アウシュビッツ収容所の上空写真。
下の部分が第一収容所で上の部分が第二収容所。第二収容所の方が遥かに大きい。
「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクが収容されていたのは第二収容所の方。
第一よりも第二の方が大きいという事実からわかるように、戦局が悪くなるに連れて益々ユダヤ人迫害が酷くなっていく。
戦局が悪くなってくると、「原因は何だ?」ということになり、それは本来物凄く複雑なことのハズであるが、
一番簡単なのは「悪者を仕立てること」、つまり「あいつのせいなんだ」という展開にもっていくこと。
こうして仕立てられたのがユダヤ人達だった…ということらしい。
館内にはユダヤ人達のカバンや靴なども大量に展示されている。
カバンに名前や住所が書かれているのは、「後で返す時にわからなくなるから」というもっともらしい理由で、それもユダヤ人達を安心させる一つの手段だった。
もちろん実際には名前の主のところに返されることはなかったわけだが。
その他、義足や刈り取られた髪の毛、またその髪の毛で作られた絨毯など、かなりショッキングなものも展示されていたが、
それは流石にここに掲載するのは控えておく。
別の館には収容されていた人達の写真が。
皆髪の毛がないのは上述の通り収容時に刈り取られてしまったから。
この館には「水洗トイレ」が当時のまま残っている。
「水洗トイレ」と聞いても「ふーん」位にしか思わないかもしれないが、
当時「水洗トイレ」を作れる技術を持つ国が世界中にどれだけあっただろうか。しかも収容所に。
これは一般の人に誤解されていることかもしれないが、当時この収容所の存在を世界の国々が知らなかったわけではなく、
第三者国際機関の査察(戦争中の捕虜収容所として満たすべき基準を満たしているか)もちゃんと受けているのだ。
査察を受けた上で、「問題なし」と判断されたのは、こういった「水洗トイレ」などの存在により、衛生面等で整った施設と認められた部分も大きいという。
もちろん査察の時にはガス室の存在は明らかにされなかったのだろうが。
計画された建物の並びといい、少なくとも人間が生活する上で当時の水準以上の設備を整えていたのは間違いないようだ。
「死の壁」と呼ばれる、反逆者達の銃殺場。多数の人達がここで見せしめとして殺された。
第一収容所のガス室。中にも入れるし写真も撮ったがアップは控えます。
初代所長、ルドルフ・ヘスの絞首刑台。
所長の家はガス室から数百メートルのところにあり、妻や子供もその家で生活していた。
そのことからも「自分は悪いことをしている」という意識がなかったことがわかる。
当時の世界では、「ユダヤ人=絶対悪」であり、世界から排除することは全世界を救うために行うべき正しい行為であると本当に信じていたのだろう。
当時の担当者達は、戦後もちろん大量に捕まったわけだが、皆一様に
「本部の指令通り行っただけで我々は悪くない。我々が悪いというのであれば、我々も被害者だ」
と言い放ったという。
彼らの事が、このアウシュビッツ収容所をまとめた文献の中で「勇気を持って」、「普通の人達」と表現されているというところに、
当時それが「当然のこと」として悪の意識なく行われていたことをよく表している。
当時の担当者で責任を取らされたのは上の絞首台で殺された初代総長のみだとのこと。
さて、ガイドツアーはここで第一収容所を後にする。
無料のシャトルバスに乗って、第二収容所へ移動。
上述の写真に写っていた第二収容所内には、ユダヤ人達を乗せて走る列車が通った線路が真ん中に走っている。
これが当時ユダヤ人達を運んできた車両。
ギュウギュウに詰め込まれたので、夏などはここに到達する前に車両内で死んでしまう人も多数いたとか。
線路を隔てて左側の景色。
そして右側の景色。
何か違和感を感じないだろうか。
左側の写真には建物が沢山写っているのに対し、右側の写真には建物が全然写っておらず、沢山の塔のようなものだけ写っている。
実は右側は戦局がかなり悪化してから拡張されたエリアで、もはやその頃になると煉瓦造りの建物を建てるだけの余裕もなかった。
そのため木材で作ったのだが、戦後ここが解放されると、近くに住んでいた住民達が冬の暖を取るための薪として、建物の木を持っていってしまったのだ。
そのため、今や建物は跡形もなくなくなってしまい、唯一煉瓦で作られていた暖炉の煙突だけがこうして残っているということだ。
線路の終点の先には被害者達を祀る記念碑が。毎年ここでは式典が開催される。
終点で降ろされ、第一収容所と同じように「審査」されて不合格になった人たちが向かうのはガス室。
これがナチスによって証拠隠滅のために爆破されたガス室。第一収容所で模型で見たもの。
どうせ隠滅するならもっとしっかり、しかも第一も破壊するべきだったはずなのだが、
それだけ追い詰められた状況だったということで、逃げるように爆破していったという当時の状況を物語っている。
そのおかげで沢山の証拠品が残り、今こうして当時の実態が暴かれているというわけだ。
数少ない現存する木造の収容所の中。
これが「何」かわかるだろうか。
実はこれは「トイレ」である。第一収容所の水洗トイレを見た後だと、尚更に衝撃が大きい。
第一収容所では少なからず見えた「人」としての扱いが、戦局の悪化と共に急速になくなっていっていることがよくわかる。
こちらはベッド。1段に5人位寝かされたらしい。
そして見てわかる通り、建物は隙間だらけで、真ん中に暖炉があるとはいえ、最早何の意味もなしていなかったことは容易に想像できる。
第二収容所の入り口にある監視塔。
中に入ることもできる。監視塔からの眺め。
収容所の広大さだけが虚しく感じられる。
現在このアウシュビッツ収容所を訪れる人が年々増えているらしい。
大きな転機はポーランドのEU加盟。そして格安航空の登場だ。
この2つの相乗効果で、上述の通り夏には入場規制が入るほどの大混雑になるという。
そして興味深いのは訪問者の7割以上を15〜25歳の若年層が占めるという事実。
若い人がこういうところに興味を持ってくれているということは、今後のヨーロッパの、世界の在り方を考えた時に非常に意義深いことになるだろうとは中谷さんの弁。
また、ユダヤ人の人達も訪れていて(例のシルクハットに髭姿なのですぐわかる)、イスラエルの旗を掲げて歩く人も多いという。
当時のユダヤ人は「国を持たない民族」であり、その結果としてこのような目にあってしまったということから、
自らの国を求めてイスラエル建国に至るという流れは、その結果として生み出した当地の紛争を差っ引いて考えても、
彼らからすれば成し遂げなければならなかった悲願であり、またそれを見ている我々の方も、現代の局所的な紛争と捉えてはいけないのだろう。
このような流れを踏まえて生まれたEUという概念だからこそ、状況の悪い国に足を引っ張られようとも脱退や解散という流れにはなかなかなっていかない。
自国の利益のみを守ることが悲劇を生むことを欧州の人達は歴史的によく理解している。
しかし、人間は忘却の生き物であるので、世代が変わって当時の悲劇を知らない人達ばかりがトップになった際に、また同じことを繰り返してしまうのかもしれない。
今、英国では経済的な状況を鑑みてEU脱退論が勢力を強めてきつつあるが、
そんな時こそ今欧州中からアウシュビッツを訪れに集まってきている若者達が自分が見てきたものをしっかりと考えて伝えて行動してくれることを願う。
アウシュビッツガイドツアーはこうして約3時間で終了。濃密な時間だった。
再びバスでクラクフへ。飛行機までは時間があるので土産物屋などを物色。
小腹が空いたのでケバブを購入して食べながら歩く。10PLZ。
夜のクラクフは決して明るくはないが、欧州っぽい雰囲気で馬車が走ったりしている。
最後はショッピングセンターのカフェで一服。最後のポーランドビール。
空港までは電車。AirportExpressというから成田エクスプレス的なものを想像したが、なんとたった2両の普通の電車。しかも遅い。
社会インフラ面等はまだまだ先進国のレベルに到達していないのかなと思う。
空港では特にトラブルなく行きと同じライアンエアーに乗り帰国。
2日間だったが盛り沢山で充実した旅だった。
アウシュビッツは本当に色々考えさせられるので、是非行ってみて下さい。絶対後悔しないと思います。
ではでは。
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